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「音楽」を聴くという行為 [音楽]

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1997年発表の5枚組CD、RhymesterのDJ Jin氏によるコンピレーション、“Searchin' For The Perfect Beat”。なんとタイトルの焼印が入った木箱入り。Hip Hopの楽曲のサンプリング・ソースとなった、FunkやSoulやJazzやRockの曲を集めたコンピレーション盤。そして素晴らしいことにDJ Jin氏による、全ての曲の解説付き。パッケージの素晴らしさにも惹かれて発売当時に購入たが、「なんか、地味な曲も多いなあ…」なんて感じで、それ程グッと来てはいなかったコンピレーション・アルバムだった。その後誰かに貸したりどこかに持っていったりして、気がつくと手元に残っているのはCD4とCD5のみ。木箱も紛失…とひどい状態に。

で、少し前に久々に残ったCD4とCD5を聴き直したら、これが何とも素晴らしい。サンプルネタ云々は抜きにして、純粋に楽曲として、とても楽しむことができた。これはもう買い直すしかない、という訳でインターネットオークションにて落札。めでたく再度完全な状態で手元に戻ってきた。そして日々堪能中。

これと関係あるかどうかわからないが、最近Hip Hopを聴くことが多い。かなり久しぶりの個人的なHip Hop〜Rapブーム到来といった感じ。その原因の一つにこれらがあったことは間違いない。

8月頭のロンドンにおける暴動。今回の暴動の多くは移民や労働者層、低所得者層、貧困層の若者達によるギャングが首謀者だった。そして、ロンドンのそんなクラスの若者達の作り出す音楽に、“Road Rap”と呼ばれるジャンルのラップ・ミュージックがあるということは知ってはいた。Hip Hopから派生した“Grime”と呼ばれるジャンルのRapからさらに派生した、彼らの怒りや絶望をひたすら吐き出す音楽。もちろん日本に住む自分に彼らの怒りや絶望が理解出来る訳はないから、その音楽がリアルに響いてくる訳ではなかった。そして、純粋に音楽的にも決して日常的に耳を傾けたくなるような音ではなかった。でも何となく気にはなっていたことは間違いない。Hip HopやRapが嫌いという訳ではなく、むしろ好んで聴いていた時期もあったのだから。

今回の暴動の原因についての分析の記事を目にする機会が出て来た時、「今回の暴動の原因は人種問題や経済格差問題ですらない、彼らには何の政治的主張もない」、「今回の暴動は目的のないただの略奪目的の暴力であり、なにひとつ共感出来る要素はない」なんていう言説を目にすることがたびたびあった。最初は自分も、「そういうことか、何でも安易に経済問題や政治問題に結びつけるべきではないのかな」なんて思っていた。が、ある時このtwitterのまとめを目にした。Road Rapをブログで紹介してこられた方による、暴動に関するTwitterでの発言のまとめ。自分がRoad Rapという音楽を知ったのもこの方のブログがきっかけだった。

このまとめを読むと、やはり暴動の主導者達を理由なき反抗者として単純に突き放す事は、現実に対してただ目をつぶってしまう行為ではないか、と思うようになった。このまとめに登場するイギリス在住の作家氏やロックのライター氏の暴動に対するスタンスよりも、このbcxxx氏のスタンスに共感してしまう。そしてbcxxx氏のスタンスはRoad Rapという音楽を通して獲得されたスタンスである事は間違いないと思う。少なくとも、白人によるRockだけを聴いていては取り得ないスタンスではあるだろう。そして、そこにこそ世界中の色々なジャンルの音楽を聴くという行為の持つ意味があるのではないか、と思った。もちろんbcxxx氏の見方に100%同意出来る訳ではないし、これを読む事で現地の現状を理解したとも言えないとは思うが。

音楽という表現、その中には強烈な現実逃避としての機能性や、強烈なやり切れなさやどうする事も出来ない不条理に対するやり場のない感情のはけ口としての機能性が込められている物がいつの時代にも存在していると思う。そしてそういう表現は、同じ過酷な現実や、やり切れなさや不条理を必ずしも共有していない者達にも時に強烈に響く。特にインターネットにより、さらに軽々と国境を越えていく事が可能な現代においては。Road Rapの表現者達はレコード会社との契約がなくても、Youtubeにビデオをアップすることで自分たちの表現を伝える手段を持つ事さえ出来ており、それはインターネットが繋がる環境にいる物であれば世界のどこにいても、誰でも目に、耳にする事が可能なわけだ。彼らの目や声に接したならば、それが半端な表現でない事位は日本でのほほんと暮らす自分にも伝わってくる。

そうやって届けたい音がある者達。しかし一方、日本人に届けよう、なんて考えてもいないだろうとも思う。でも届いてしまう。音楽だから。もしかしたらそれが文学かもしれないし、映画かもしれないし、絵画かもしれない。デザインかもしれない。料理かもしれない。媒体は色々だ。じゃあ届いてしまったらどうするか?その媒体をきっかけととして、その思想や苦悩そのものに共感する事は出来なくても(安易に共感出来るた気になってしまう事も危険だと思う)、その表現の背後にある現状について簡単に切り捨ててしまう事なく、想像力を働かせてみること、考えるきっかけにする事、それが誠実な向き合い方ではないかと思う。少なくとも「共感出来る事など何もない」などと切り捨ててしまう事はせずに。実際にその表現に接すれば、背後に何も問題がないなんて事は言えないだろう。逆に言えば、そう考えさせるきっかけとして作用する物こそが優れた表現なのかもしれない。

新しい悩み事が増えれば、新しい表現も産まれるだろう。新しいアイデアやツールが産まれれば新しい事象が産まれ、新しい喜びや新しい苦悩が産まれる。そしてまた新しい表現が産まれる。のであれば、文字通りの「新しい」表現に対して閉じてしまわずに心を開いておく事、それは大切な事だと思う。そしてまた、「新しい」という基準は、自分にとって「新しい」という事でもある。まだ触れていなかった物に触れてみみることで新しい世界に足を踏み入れたり、過去に触れても興味を引かれなかった物も自分自身の変化に伴って全く違って見えたり聴こえたりして、そこからさらに新しい世界に脚を踏み入れる事。そうやって自分の幅を広げていけたら良いと思うし、それが実感として感じられる事は自分にとっての喜びでもある。冒頭の“Searchin' For The Perfect Beat”を聴き直して感じた楽しさは、自分にとっては驚きであり喜びでもあった。音楽だけにとどまらず、何かをさらに広く、さらに深く理解出来るようになるという事は、より多くの他者を理解するきっかけを掴むという事だ。そのきっかけにするのでなければ表現に向き合う意味なんてないし、そんなきっかけを掴む必要なぞ無い、なんてこの世界で断言して許される者がいるとは思わない。思えない。

いつまでも自分にとっての過去の名作や名盤ばかりに気を取られる事なく、文字通りの意味でも、自分にとってというごく私的な意味でも「新しい」何かに接し、理解しようと心を開き続けていきたいと思う。古い物で商売しているけど、文字通り「古い」物、そして自分にとってはすでに「古い」物だけを見て、「古い」物だけに接していればいいとは全く思わなくなってもきた。自分にも世界にも悩み事は尽きないのだから。

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